鯉明神 亀岡大井神社 -1-
日曜日 嵯峨野嵐山発園部行は、9:16と9:50の二本だけ。
亀岡駅の先は、ぐっと連絡の難易度があがります。
予報通り雨。
境内には誰もいません。
丹波 亀岡大井神社
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by clarte9
| 2024-03-14 00:00
| 京都
大井神社
2024/2/23 撮影。最後の一枚のみ2/24、京都府道29号線側より。
渡月橋からふと振り返ると、店に挟まれた鳥居に気づきました。
近くに行ったのですが、なぜか行き止まりのように感じて
そのままになっていました。
でもやはり気になって
水たまりや自転車、その他もろもろをを突破すると
奥にちゃんとお社があった。。。。。
雨のなか参拝される地元の方もいらっしゃいました。
てっきり上流、亀岡の大井神社と関係があると思ったのですが、
早とちりだったようで
野宮神社の場外摂社なのだそうです。
長い歴史の中で
松尾大社、櫟谷宗像神社、そして鯉神社(亀岡)それぞれに
大堰川を巡る社のご縁があったのでしょうけど。
大井神社 by 神奈備
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by clarte9
| 2024-03-13 00:00
| 京都
葛野大堰 一ノ井堰(洛西用水)
2022/9/24撮影。
そうそうはない嵐山への旅で
今回絞りこんだテーマは、「梅」と「大堰川」
のに、まとめてみると見落としに気づくもの。
運良く在庫から拾い出せました。
古墳発生地である奈良盆地に隣接する京都だから、早くから古墳は営まれている。それらは盆地周辺の丘陵の底部に、四世紀初め頃から造られ始めた。(中略)奇妙なことにそのうちの嵯峨野グループだけは五世紀終り頃、つまり他の地域より二百年近く遅れて古墳が造られ始める。
「野」とは等高線が一段高い、水がかりが悪く稲作に適していない土地を示す。京都は、北側が高い地形だから、北野(京都市上京区)、紫野、平野(ともに北区)といった「野」のつく地名は北部に多いが、いずれも水を供給しにくい場所だ。嵯峨野もそういう環境だったが、五世紀終り頃に急に古墳が造られる。つまり、この頃に水利が整備されて、稲作という生産性のきわめて高い産業が行われるようになり、(中略)
そうなった原因ははっきりしていて、渡来人秦氏たちの土地の開発によるものだった。
井上満郎著「お稲荷さんの正体」洋泉社刊より
この波の下には、古代の人の智慧と苦労が眠っている。
葛野大堰 水利遺産探訪― 古代 の桂 川―桂 川 「一 の 井 堰 」(2) by (独)農 業工学研究所 松 本 精 一
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by clarte9
| 2024-03-12 00:00
| 京都
一ノ井堰碑
一ノ井堰碑
碑のそばに、保津川下りの舟揚げの場所がありました。
クレーンの向こう、クルマが渡っているの渡月小橋。
「船頭だより」(by京都・亀岡保津川下り) によると、
保津川下りの舟は、高瀬舟なのだそうです。
木製かFRPなのかは、私ではわかりません。
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by clarte9
| 2024-03-11 00:00
| 京都