清涼寺(嵯峨釈迦堂) -2- 五百羅漢図
伽藍は三度焼け落ち、現在の堂宇は徳川家の支援により再建されたそうです。
本堂に入って、東側の廊下には、桂昌院ゆかりの品が展示されています。
そして本堂の西側には、
豊臣秀頼公の首塚と大坂の陣諸霊供養碑があります。
見たときは驚いたのですが、
1980年、大坂城三の丸の発掘調査で発見され
三年後、再興につくしたゆかりのあるこの地に埋葬されたのだそうです。
この日は、雨の中二度も道に迷い、
待ち合わせに遅れまいと消耗した後だったのですが
ふと、ぴぴぴっと呼ばれるものが。
ご本尊の左手、十幅の羅漢図が架けられていたのです。
法眼一信 五百羅漢図 下画 紙本著色 十幅 京都府・清涼寺蔵
小学館刊: 安村敏信 山下裕二監修「狩野一信 五百羅漢図」(2011/3/15)より
すぐそばに寄って見られるのです。
わらわらと逃げていく妖鬼のリアル感、
羅漢さんたちは、かなり不気味。
じっくり見ておけばよかったと
あとでこそ思いますが、なかなかに濃厚でもあって。。。
帰宅して調べたところ、おいそれとみられるものではありませなんだ。
五百羅漢-増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師 狩野一信
図書館から借りて閲覧しましたが
現地でみた十幅の印象がはんぱない。
やっぱりなまで見たからでしょう。
あと、下画ゆえの力もあるのかと思います。
見られてよかった。
道迷いも、おいでおいでだったんでしょう。きっと。
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by clarte9
| 2024-03-19 00:00
| 京都
清涼寺(嵯峨釈迦堂) -1- 雨と梅
源融は、光源氏のモデルと目されている人ですが
その山荘「棲霞観」が、没後「棲霞寺」となり
のちに釈迦如来像が安置されて「清涼寺」となります。
物語で明石の君が移り住んだのはおそらく大堰川の近く
そこからほど遠からぬ御堂が実在したとなると
当時の読者はさぞワクワクしたことでしょう。
一枚目、雨の降りしきる仁王門
二枚目、回廊。
三枚目、阿弥陀堂
清涼寺(嵯峨釈迦堂)
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by clarte9
| 2024-03-18 00:00
| 京都
スノームーン 渡月橋
滞在中、唯一晴れた日が 偶々満月でした。
「くまなき月の渡るに似る」
を体験できる 千載一遇のチャーンス!
夕食後、嵐山駅付近から歩きだします。
どんなだったか想像しながら
橋よりやや上流まで来ました。
こんな感じ?
月を見ながら、橋を渡ってみます。
嗚呼・・・・
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by clarte9
| 2024-03-17 00:00
| 京都
鯉明神 亀岡大井神社 -3-
大井神社の沿革によると、710(和銅3)年に創建とあります。
亀岡の歴史は、旧石器時代に始まり、
6世紀には盆地最大の千歳車塚古墳も作られていました。
伝承によると、湖だった亀岡盆地が乾き、
残った大いなる井戸から「大井」の名がついたと。
別当寺の名残の太鼓橋の下に、神池(丹の湖)のなごりが残っている、と。
・・・・・
ちらっとしか見てこなかった!
もちろん、写真も!
なにより、神社名に大井川がダイレクトに関係してなかった!!
事前に公式サイトもチェックしていて、これです。
お社から臨む愛宕山は穏やかです。
余談ですが、
亀岡の名は、1869年明治政府により変更されています。
丹波亀山と伊勢亀山との重複を避けるためだそうですが
戊辰戦争のときの嫌がらせ?
1577年、明智光秀の亀山城築城が
亀山の名が確認される最初とのことですが。
そもそも奈良時代以前から人々の往来があり、
要所とされまた伝承の残る土地。
元々は、どんな名であったのでしょう。
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by clarte9
| 2024-03-16 00:00
| 京都
鯉明神 亀岡大井神社 -2-
境内には、天満宮のほか稲荷社、七つの末社が並び
その中央に、かつて別当寺だった東光寺の阿弥陀仏が祀られていた。
この位置に据えられたのは、2009年。
それまでは、北西の隅に置かれていたという。
古い寺社も、かつてのままの姿ではないのだと
廃仏毀釈の無残を、此の地にきて思う。
大井神社境内案内
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by clarte9
| 2024-03-15 00:00
| 京都